飛鳥の歴史と遺跡を紹介する

飛鳥 ヒ・ストーリー

飛鳥に関するさまざまなお話を掲載しています(おっとり通信の特集記事です)

第1話から第65話は、『おっとり通信』PDF版 第1号~第65号をごらんください。

第66話 壷阪寺の創建


 壷阪寺は、高取城がある標高584mの高取山の中腹、標高310mの所にあります。西国三十三所の第六番霊場、十一面千手観音を本尊とする寺院で南法華寺ともいいます。現在の境内は、ひな壇状になっており、最上段に江戸時代後期再建の本堂と室町時代中期再建の礼堂、同じく室町時代の1497年再建の三重塔からなる主要伽藍があり、下段には灌頂堂(かんじょうどう)・多宝塔・大講堂のほか、高さ15mの壷阪大仏があります。道路を渡った山側には高さ20mの大観音石像もあり、これらの石造物の多くは、長年にわたるインドとの国際交流事業の結果、造立されたものです。

壷阪寺の創建

 壷阪寺の創建を伝える古代の史料はありません。鎌倉時代の初めに貞慶(じょうけい:笠置山寺で活躍した僧で法然の専修念仏を批判したことで有名)が著した『南法花寺古老伝』によると、壷阪寺の歴史は、703(大宝3)年に本元興寺(飛鳥寺)僧であった弁基(べんき)が八角円堂を建立したことに始まります。奈良時代初期の元正天皇の時に礼堂や塔などの伽藍が整備され、「法華寺」の勅額(天皇が与える寺院名の額)が与えられます。平城京内に法華寺が建立されたため、奈良時代後半には南法華寺と名乗るようになります。『古老伝』には本尊についての記述はありませんが、別の記録には坂の上に祀っていた水晶の壷に観音の姿が映し出されたので、弁基が観音像を刻んだとあります。
 平安時代には大寺院として栄え、1007年には金峰山(きんぶせん:大峰山)に参詣した藤原道長もここで宿泊しています。1096年、1207年と火災にあい、戦国時代には国人越智氏が館を構えたため、たびたび戦火に巻き込まれますが、そのたびに再建されています。

壷阪寺の発掘調査

 本堂(八角円堂)と礼堂の解体修理にともなって、1962年と63年に発掘調査がおこなわれました。その結果、創建時の本堂と礼堂の基壇の一部が検出されました。本堂は創建時から八角円堂であったこともわかりました。調査では多数の瓦のほか、塼仏や三彩の陶器片、銭などの遺物が出土しました。出土した瓦の時期は8世紀初頭のものが大半で、飛鳥寺・本薬師寺・藤原宮の瓦と同笵(どうはん:同じ木型を使用した瓦)のものがあることから、壷阪寺の創建は、703年と考えてよいと思います。なお、発掘調査で出土した遺物は本堂内に展示されています。


壷阪寺創建の目的は何か

 壷阪寺創建の背景には、持統太上天皇の死がありました。持統は702年12月に死去、1年後に火葬され、夫の天武天皇陵(野口王墓古墳)に合葬されます。壷阪寺が703年に創建され、本堂が亡くなった人を供養する八角円堂であること、持統の孫である元正天皇(氷高皇女(ひだかのひめみこ)、文武天皇の姉)が伽藍を整備したこと、女性の成仏を説く法華経から取られた寺名、そして藤原京朱雀大路の南延長線上に建てられたことなどから考えると、壷阪寺が持統供養の寺であった可能性は高いと思います。
 持統供養の寺が、藤原京の京内や郊外ではなく、はるか南方の山の中腹に建てられたのはなぜでしょうか。持統がたびたび行幸した吉野との関係かと思いましたが、壷阪寺から藤原京はよく望めますが、吉野は全く見えません。
 おそらくこの場所には以前から、山林修行者たちの拠点となる施設(小規模な寺院)があったのではないでしょうか。明日香南部の稲渕周辺や高取山中は聖地とされ、そこで修行することで呪力を得ることができる場所とされてきました。高取山の地主神(じしゅしん)は滝蔵権現で水源の神です。壷阪寺の創建時の本尊は十一面観音だったと考えられます。十一面観音はもとインドの神で天候を支配する神でした。祈雨祈願など巫女王的性格をもつ斉明大王の孫である持統による藤原京・平城京の守護を期待して、聖地であるこの場所に彼女を供養する寺院が建立されたのかもしれません。

野の寺、山の寺

 平安時代初期に空海が真言密教を伝えてから、寺院が山林に建立され、修行の場となったと言われますが、7世紀後半にはすでに真言密教以外の密教(古密教・雑密(ぞうみつ))が伝わり、山林修行がおこなわれています。壷阪寺の発掘調査でも、古密教の儀式に用いられる三鈷杵(さんこしょ)の破片が出土しています。平地の大寺院による天皇・国家守護の祈願とともに、山寺で修行する行者の呪力にも天皇・国家守護への期待がかかっていたのではないでしょうか。国家仏教は平地の大寺院と山寺のペアで展開していきました。
 眼病に霊験あらたかな壷阪寺の観音様、沢市とお里の『壺坂霊験記』は明治時代につくられた浄瑠璃ですが、『日本感霊録』には、9世紀初め、10歳で失明した僧が壷阪山寺で祈願・苦行をおこなうと開眼した説話がのせられています。現世利益の仏教への芽生えがこの頃から見られるようです。
 壷阪寺では、3月に礼堂内が4500体の雛人形で埋め尽くされる大雛曼荼羅がおこなわれます。4月には壷阪大仏が桜花で埋まる桜大仏も有名です。暖かくなったら、土佐の城下町から高取城へ登城、五百羅漢を通って壷阪寺に参詣し、再び土佐へ下るハイキングもおすすめですね。
                    
                         《参考文献》
    清水昭博 『飛鳥の古代寺院』 萌書房 2023年
    逵   日出典 『奈良朝山岳寺院の研究』 名著出版 1991年
    大西貴夫 「古代の山寺の実像―南法華寺を例に―」
 (山の考古学研究会編 『山岳信仰と考古学Ⅱ』 同成社 2010年)
    高取町教委 『南法華寺発掘調査報告』 2003年 

壷阪寺の主要伽藍

壷阪寺本堂(八角円堂)

壷阪寺から橿原の眺望

第67話 甘樫丘をめぐる遺跡


 甘樫丘に登ろう

 甘樫丘は、644年に蘇我蝦夷・入鹿父子が大規模な邸宅を構えた場所として有名です。現在、甘樫丘と呼ばれている丘陵は、1970年頃までは豊浦山(とようらやま)と呼ばれており、みかん山だったそうです。高松塚古墳の発掘を契機に飛鳥ブームが高まると、甘樫丘と呼ばれるようになり、多くの方が登られるようになりました。標高は約150mですが、登り口の標高が100m前後ですので、比較的簡単に頂上に立つことができます。最近、頂上の展望台周辺で、古くなった樹木の伐採がおこなわれ、飛鳥盆地の全景や藤原宮・大和三山など、これまで以上に展望を楽しむことができるようになりました。世界遺産をめざす飛鳥・藤原の全体像をつかむのに最適な場所といえます今号では、甘樫丘にある遺跡を紹介します。


甘樫丘の遺跡案内

 甘樫丘には数か所の登り口がありますが、今回は豊浦休憩所から登りましょう。休憩所にはトイレや自販機もあります。道標にしたがってゆるやかなカーブを少し登ると、明るく開けた芝生広場が現われます。ここが平吉遺跡(ひきちいせき)です。以前から瓦や土器が散布していたため、1977年に発掘調査がおこなわれました。その結果、この場所では、6世紀後半に竪穴住居が建てられ、7世紀後半には掘立柱建物と池状の施設が設けられたこと、8世紀になると大規模な塀によって仕切られた南側に金属加工をする工房が建てられたことがわかりました。蘇我氏が邸宅をかまえた7世紀前半の遺構は見つかりませんでしたが、豊浦寺の瓦が多数出土しましたので、登り口の西側で見つかっている西念寺山瓦窯(がよう)(豊浦寺の瓦を焼いたかどうかは不明)や近くの窯で焼かれた瓦を保管する場所だったかもしれません。また奈良時代の土馬も見つかっていますので、8世紀には祭祀を行う場所でもありました。
 広場を出て、カーブの道を登っていくと頂上展望台です。展望台のすぐ手前、木製の四角い台状のベンチがある辺りが、太平洋戦争中の1944年、頂上部を開墾した際に豊浦火葬墓が見つかった場所です。地下約60㎝の所に木炭をぎっしり詰め、瓦のようなもので囲んだ施設があり、その中に火葬骨と和同開珎1枚が入った須恵器の蓋付きの壷(蔵骨器)が置かれていました。甘樫丘では先ほどの平吉遺跡でも9世紀前半の木棺墓が見つかっており、石帯が出土しています。また、明日香村が発掘を進めている甘樫丘遺跡群でも、10世紀頃の木棺墓が見つかっています。平城京や平安京に都が遷った後の甘樫丘はこの地域を本貫地(ほんがんち)とする官人たちの墓域になっていたようです。
 豊浦火葬墓から頂上展望台まで、ほんのわずかの登りです。春には満開の桜が出迎えてくれます。心行くまで展望を楽しんだら、頂上から続く尾根を南西に向かって歩きます。西側の畝傍山の展望が開ける場所から、道標に従って駐車場の方に降りていきます。下りきった場所に広い空地があります。この場所と一段下の駐車場が甘樫丘東麓遺跡(あまがしのおかとうろくいせき)の主要部分です。
 駐車場の建設に際して行われた1994年の発掘調査で焼けた壁土や炭化した木材を含む焼土層が見つかり、出土した土器が7世紀中頃のものであったことから、645年の乙巳の変(蘇我蝦夷・入鹿滅亡事件)の際に焼け落ちた蘇我氏の邸宅跡ではないかと大きなニュースになった遺跡です。その後の調査・研究で、焼土層は付近にあった工房に由来するものであり、蘇我邸との直接的な関係はないことが判明しています。たしかに『日本書紀』には、蘇我蝦夷が「天皇記・国記・珍宝を焼く」とありますが、邸宅が焼失したとは書かれていません。
 その後、2005年から2013年にかけて継続的に行われた発掘調査では、この場所で7世紀前半に大規模な土地の造成がおこなわれ、ひな壇状に石垣が築かれたことがわかりました。この施設は7世紀中頃に大規模に埋め立てられ、7世紀後半には掘立柱建物や倉庫などが建てられました。東麓遺跡は蘇我氏の邸宅そのものではないにしても、それと関わりのある遺跡であることは間違いないと思います。
 駐車場から北側に回り込んだ「南山」という広い谷では、2020年度から明日香村教育委員会による甘樫丘遺跡群の発掘調査が継続的に行われています。7世紀後半の建物や倉庫などが見つかり、木簡も出土しています。蘇我氏の邸宅に直接関わるものは見つかっていないようですが、今後の調査で見つかるかもしれません。

蘇我氏の邸宅はどこにあるのか

 私は、蘇我氏の邸宅が南山の広い谷間にあったと考えていました。その場所は2020年度の調査で遺構・遺物とも見つかりませんでした。蘇我氏の邸宅はどこにあったのか?甘樫丘の尾根上にもあったかもしれませんが、日常生活を考えると大型の建物は平地や谷間にあったと考えるのが自然です。
 地図を見ながら古代の甘樫丘の範囲を考えてみると、現在橿原市域で住宅地になっている部分がかつては丘陵で甘樫丘から延びる尾根や谷にあたることがわかります(4ページの図参照)。この地域で見つかった遺跡を調べていくと何かわかるかもしれないなあと頭をひねっています。古代史は謎があるから楽しいですね。
 平吉遺跡の解説板は文字が薄くなり、甘樫丘東麓遺跡は駐車場の掲示板に現地説明会資料が掲示されているだけです。簡単な案内や表示があれば、甘樫丘散策の楽しみも増えると思います。
 
 《参考文献》
奈良文化財研究所 『奈良文化財研究所年報』
明日香村教育委員会 『明日香村遺跡調査概報』
若杉智宏 「甘樫丘東麓遺跡と乙巳の変」 (奈良文化財研究所『文化財論叢Ⅴ』) 2023年
相原嘉之「甘樫丘をめぐる遺跡の動態」(明日香村教委『明日香村文化財調査研究紀要15号』 2016年

平吉遺跡

頂上展望台を望む

甘樫丘東麓遺跡

①五条野丸山古墳 …蘇我稲目の墓
②植山古墳 …推古大王の初葬墓
③宮ケ原1・2号墳 …蘇我蝦夷・入鹿の墓(予定)
④菖蒲池古墳 …蘇我蝦夷・入鹿の墓(実際)
⑤小山田古墳 …舒明大王の初葬墓
⑥五条野城脇古墳(消滅)
⑦平吉遺跡
⑧甘樫丘東麓遺跡
⑨五条野内垣内遺跡
⑩五条野向イ遺跡
 ※古墳の被葬者はおっとりの見解です
 ※⑨⑩は古墳を壊して造営された7世紀後半の邸宅

第68話 本居宣長と歩く飛鳥


次回は、第69回「小山廃寺は紀寺か?」です

 

本居宣長について

 本居宣長は、江戸時代後期に活躍した国学者です。江戸時代中頃に生まれた国学は、日本の古典を研究し、古代の日本人の思想を探求する学問です。本居宣長は1730年に伊勢国松坂の木綿商人の家に生まれました。早くに父が亡くなり、後を継いだ義兄も早世したため、家を継ぎますが、商売の才能はなかったようです。23歳の時に母の勧めもあって京都で医学の修業を始めます。もともと文学や歴史好きの青年であった宣長は、京都という環境の中で古典研究を志すようになりました。5年後、帰郷して開業、昼間は医師として働き、夜間に古典研究や自宅に開いた私塾(鈴屋(すずのや))で門弟の教育にあたりました。34歳の時に出会った国学者賀茂真淵(かものまぶち)に入門し、『古事記』の研究をスタートします。研究の成果は35年後に古事記の注釈・研究書『古事記伝』として結実します。宣長は奈良方面への旅を6回おこなっています。今回は旅の記録が『菅笠日記(すががさのにき)』として刊行されている1772年3月の吉野・飛鳥・藤原への旅を紹介します(4ページに関連地図があります)。

『菅笠日記』の旅

 本居宣長は父母が吉野の水分神社(みくまりじんじゃ、子守明神)に祈願して授かった子どもです。13歳の時に水分神社へのお礼参りをしていますが、43歳になった宣長は再度のお礼参りと念願の吉野の花見を果たすため、3月5日(新暦では4月9日)に5名の友人や門人と松坂を出発しました。
 吉野での参拝や見物を終えた一行は、3月10日に吉野から壷阪寺をへて飛鳥に入ります。檜隈寺跡から高松塚古墳、野口王墓古墳(のぐちおうのはかこふん)、川原寺跡、橘寺を見学し、この日は岡の宿に宿泊します。翌11日、一行は岡寺、酒船石、飛鳥寺、飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)、大原(藤原鎌足誕生地)をめぐり、阿倍文殊院方面へ足をのばしています。一日の行程が長く、健脚だと思いますが、もっと驚くのは見学場所を地図上でつないでいくと、各地点を最短距離で効率よく回っていることです。事前に周到な計画を立てていたことがわかります。

本居宣長と歩く飛鳥

 宣長といっしょに飛鳥を歩いてみましょう。檜隈寺跡(ひのくまでらあと)では十三重石塔を眺め、散布する布目瓦を見て古代寺院跡を観察しています。また寺跡の庵に住んでいた僧が寺の名前「どうこうじ」の漢字を知らないことにあきれています(里人に聞くと「道光寺」と教えられたが、実際は「道興寺」)。翌日参詣した岡寺では観音様のご詠歌をうたう団体に辟易(へきえき)し本尊の如意輪観音像にはふれていません。阿倍文殊院も「世に名高い文殊」だけで、文殊菩薩渡海群像については何も語っていません。宣長は仏教を否定しているわけではありませんが、その民衆化や俗化を好ましく思っていないこと、仏像にもあまり興味がないことがわかります。仏教以前を研究する国学者だからでしょうか。
  宣長が興味関心を持ったのは、古墳です。現在、天武持統陵に治定されている野口王墓古墳は開口していた石室に入り焚火の跡を見つけています。地元の者が武烈陵だというのを、『延喜式』に記載された陵名をあげて、このあたりには欽明陵・文武陵・天武持統陵しかないはずだと反論しています。阿倍文殊院の近くにある艸墓古墳(くさはかこふん)では石室や石棺の様子を詳しく記しています。五条野丸山古墳を宣化陵と推定し、神武陵を小さすぎて信じられないとする(現在の神武陵は幕末に大規模に改修されました)など、古墳や陵墓に対する関心の高さがうかがえます。これはおそらく『古事記伝』の執筆が進み、神代から人代に入り、天皇の陵墓についての研究をすすめていたからだろうと思われます。
 また、藤原鎌足の誕生地である大原の里で、ここが藤原宮だとする地元の僧に対して、「万葉集の歌では藤原宮は天香具山に近いはず、この場所は実際に来てみると香具山から離れすぎているので違う」と述べており、文献で得た知識を現地に行って確かめるフィールドワークを大切にする学者だったこともわかります。

旅は続く

 『菅笠日記』の旅はまだまだ続きます。3月11日は桜井から橿原方面に戻って、天香具山に登り、現在の藤原宮跡付近から五条野丸山古墳を訪ね、見瀬の宿に泊まっています。12日は畝傍山周辺から今井町・八木町を経て大神神社(おおみわじんじゃ)に参拝、萩原(榛原)で宿泊します。松坂に帰り着いたのは3月14日でした。旅の後半のできごとについては、また別の機会に紹介したいと思います。
 最後に不思議なことがひとつ、飛鳥の謎の石造物のうち、宣長が詳細な観察をしているのは酒船石だけです。猿石は今回の旅の道筋からはずれていること、また二面石はこの時期、橘寺に置かれていません。川原寺へ向かう途中、亀石は必ず目にしているはずです。しかし、『菅笠日記』にはまったく触れられていません。今の私と同じで、「これは何だ?わからないなあ?」で思考が停止したかもしれません。首をかしげている宣長の姿が思い浮かぶようですね。
 
 《参考文献》
 本居宣長記念館編 『本居宣長の不思議』 2022年
 和田 萃 「本居宣長の歩いた飛鳥」(季刊明日香風110号) 2009年
 青山茂 「奈良学あるいは大和学についての序説(2)~(4)」
  (『日本文化史研究』14・15・17号) 1991・92年
 雑賀耕三郎 『令和に歩く菅笠日記』 京阪奈新書 2024年

本居宣長旧宅

(三重県松阪市)

大原神社(藤原鎌足誕生地)

艸墓古墳の石室と石棺

第69話 小山廃寺は紀寺か


 

小山廃寺について

 小山廃寺は明日香村最北端の小山大字の明日香庭球場の隣にある古代寺院跡です。主要伽藍跡は県史跡に指定され、金堂の土壇が復元されています。礎石などはありませんが解説板が立てられています。江戸時代終わりごろには金堂や講堂の礎石が散在し、塔の心礎や礎石が金堂跡の南東にあったことが記録されていますが、1877(明治10年)年頃に心礎や礎石は別の場所で再利用されました。

小山廃寺の発掘調査

 小山廃寺では庭球場の建設や拡張にともなう発掘調査がおこなわれています。1973年の1次調査では中心伽藍西半部が発掘され、金堂や講堂、回廊、中門、南門の遺構が検出されました。また心礎があったと考えられる場所(調査区域外)と対称になる場所からは2本の柱が立てられた遺構がみつかり、儀式の際の飾り布である幢幡(どうばん)を取り付ける支柱だと考えられています。
 その後の調査で、寺域を囲む掘立柱塀や東門も見つかり、藤原京左京の中で南北を七条大路と八条大路、東西を東一坊大路と東二坊大路に囲まれる範囲を占め、伽藍の中軸線がこの区画の南北中軸線と一致することから、小山廃寺は藤原京の条坊道路施工後に建てられたことがわかりました。
 出土した瓦は外側にラーメン鉢の模様のような雷文をめぐらせた複弁蓮華文の軒丸瓦と重弧文の軒平瓦の組み合わせで小山廃寺式と呼ばれています。瓦の年代は、天智朝に建立された川原寺より少し後と考えられています。また小山廃寺式の瓦が出土する寺院跡は畿内や東国に多く存在することもわかりました。

小山廃寺は紀寺か?

 保井芳太郎さんは小山廃寺の所在地の小字がキデラであることから、この寺院を紀氏の氏寺である紀寺と推測しました。奈良県が指定した史跡名も「紀寺跡」となっています。『続日本紀(しょくにほんぎ)』の764(天平宝字8)年の記事には平城京紀寺の奴婢(ぬひ)をめぐる訴えの中で、平城京に移転する前の紀寺が天智朝の670年には存在していたことがわかります(場所は不明)。しかし、紀寺が藤原京に存在したことを示す古代の史料はありません。藤原京の条坊施工は676(天武5)年以降なので、条坊施工後に造営された小山廃寺と670年に存在していた紀寺の年代が合いません。さらに小山廃寺式の瓦が紀ノ川流域(紀氏の拠点)からまったく出土しないことからも小山廃寺は紀寺ではないとする意見が有力になり、小山廃寺式の瓦が広範囲に分布することから小山廃寺は朝廷が建立した官寺と考えられるようになりました。

 小山廃寺を高市大寺(たけちのおおでら)、もしくは天武朝の大官大寺とする説もあります。しかし、高市大寺説は、高市大寺の前身寺院である百済大寺(くだらのおおでら、吉備池廃寺)の瓦が小山廃寺からまったく出土せず、伽藍の規模も大きく縮小しているので成り立たないと思います。677年に高市大寺が移転して大官大寺となったとする説(天武朝大官大寺説)も文武朝に建立されたもう一つの大官大寺と比べると伽藍規模が小さいと思います。藤原氏が建立した山階寺(やましなでら)という説もある京都市山科区の大宅廃寺(おおやけはいじ)から小山廃寺式の瓦が出土していることから、680年の天武天皇の病気に際して藤原不比等が発願した寺院であるとする説もあります。私は、清水昭博さんの説を参考に小山廃寺の性格を考えてみました。

小山廃寺と本薬師寺

 小山廃寺でもっとも気になるのはその位置です。藤原宮の正面にあり、朱雀大路をはさんで対称になる地に本薬師寺が建立されています(実際には小山廃寺と対称となる場所には飛鳥川が流れているため本薬師寺は一坊分だけ西にずれています)。本薬師寺は、680年に鸕野皇后(うのこうごう、のちの持統天皇)の病気回復を祈って天武天皇が発願しました。しかし、本薬師寺建立の背景には、律令国家形成を進める天武と持統がみずからの国家を薬師如来の東方瑠璃光浄土(とうほうるりこうじょうど)になぞらえる目的があったと思います。宮城の正面を瑠璃光で荘厳し、都を守護するために、当初から東西二つの寺院の建立が計画され、先に東の小山廃寺の造営が始まり、皇后と天皇の相次ぐ発病を機に、西の本薬師寺の造営も開始されます。その結果、天皇が建てる本薬師寺と皇后が建てる小山廃寺という位置付けになったのではないでしょうか。鸕野皇后に気に入られて政界に登場する藤原不比等が小山廃寺の建立に協力したことも考えられます。
 もちろん疑問は残ります。本薬師寺は新羅の影響が強い東西両塔を建てる伽藍配置です。小山廃寺も同様の伽藍配置であった可能性が高いです。本薬師寺の西塔造営は平城京への遷都後におこなわれますが、小山廃寺では西塔は建立されず幢幡支柱が建てられます。また小山廃寺は平城京に移転しなかったのでしょうか。この場所にキデラという地名があるのはなぜでしょうか。文武天皇の后の一人に紀竈門娘(きのかまどのいらつめ)がいるのも気になります。心礎があったとされる金堂南東部に塔跡があるのかないのか、という点も謎です。考えれば考えるほど謎が深まる小山廃寺ですが、塔跡推定地が発掘調査される機会を待ちたいと思います。
 
 《参考文献》
 保井芳太郎 『大和上代寺院志』 大和史學會 1932年
 泉森   皎   「紀寺跡の調査」(『季刊明日香風46号』) 1993年
 小笠原好彦 『奈良の古代仏教遺跡』 吉川弘文館 2020年
 清水昭博 『飛鳥の古代寺院』 萌書房 2023年

小山廃寺

小山廃寺の瓦

(解説板の写真)

藤原京の模型写真

次回は、第70回「沼山古墳と小谷古墳」です

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歴史体験教室 2026年春学期の催しを掲載しました