飛鳥の歴史と遺跡を紹介する

飛鳥 ヒ・ストーリー

飛鳥に関するさまざまなお話を掲載しています(おっとり通信の特集記事です)

第1話から第70話は、『おっとり通信』PDF版 第1号~第70号をごらんください。

第71話 飛鳥寺発掘物語

 

 飛鳥寺(法興寺)は日本で最初の本格的な仏教寺院です。蘇我馬子の発願で造営を開始、596年におおむね完成し、606年に本尊の釈迦如来像が完成しました。創建時は、五重塔の周りを中・西・東の三金堂が囲む独特の伽藍配置ですが、平安時代末に諸堂や門などが倒壊、1196(建久7)年の落雷で塔と中金堂が焼失して衰退します。その後、本尊の釈迦如来像(現・飛鳥大仏)は修復されました。江戸時代になって本堂が再建され、安居院(あんごいん)として復活します。

飛鳥寺発掘調査事始め

 飛鳥宮などの遺跡の発掘調査の契機となったのが、1950年代に計画された大和平野農業用水導水路(吉野川分水)工事です。奈良盆地の農業用水不足を解消するために、吉野川からトンネルで引いてきた用水路が明日香の盆地を貫くことになり、ルートを決定するため、飛鳥宮跡(伝承飛鳥板蓋宮跡(でんしょうあすかいたぶきのみやあと))などの調査が始まったのです。
 飛鳥寺跡には基壇や礎石などの痕跡がほとんど残っていなかったので、創建伽藍を解明する調査が計画されます。1955年の予備調査で安居院の釈迦如来像(飛鳥大仏)が創建当時の位置から動いていないことが確認され、この場所を金堂跡とする前提で調査計画が立てられました。調査団は、国立奈良文化財研究所の坪井清足さんのほか、網干善教さん、水野正好さんなど、そうそうたる顔ぶれでした。

この建物は何だ? ―第1次調査―

 1956(昭和31)年5月1日から発掘が始まりました。本堂の南側にトレンチを入れますが、江戸時代の瓦溜りがあるだけで、最初の2日間は古代の遺構を検出できません。5月3日にやっと金堂跡とその南側で塔跡が見つかります。1936年の調査で、現存する法隆寺西院伽藍(法隆寺式伽藍配置)よりも四天王寺式伽藍配置の若草伽藍のほうが古いことがわかっていました。「推測通り飛鳥寺は四天王寺式だ!」
 続いて、回廊を見つけるために金堂から西に向かってトレンチ(細長い溝)を入れたのですが、回廊は見つかりません。
2本目のトレンチでも回廊は、検出されず、3本目のトレンチを調査中の5月21日、現在の鐘楼のすぐ西側で南北に連なる石の列を見つけます。掘り進めると回廊ではなく建物跡でした。西金堂の発見です。遺構の残りは良くなかったのですが、日本ではじめて見つかった二重基壇をもつ建物でした。調査員の脳裏を横切ったのは、戦前に発掘された高句麗の清岩里廃寺の一塔三金堂の伽藍配置でした。
 「飛鳥寺も一塔三金堂かもしれない。次の調査で確認しなければ…」
 1次調査は6月末に終了します。調査は、休日なしで連日8時から17時まで行われ、調査員は飛鳥坐神社(あすかにいますじんじゃ)で合宿です。毎晩、調査成果を協議し、その結果を発掘日誌に記しました。出土遺物の洗浄や拓本取り、台帳への登録などの作業も連日深夜までおこなわれました。
  一塔三金堂 ―第2次調査―
 11月20日、第2次調査が始まります。西金堂と対称となる場所の水田に十字形にトレンチを入れると、同じ二重基壇をもつ建物跡が見つかりました。東金堂です。これで飛鳥寺が一塔三金堂の伽藍配置をとることが判明しました。伽藍配置は高句麗の影響が強いと考えられるようになりました(現在では韓国での発掘調査がすすみ、飛鳥寺と似た伽藍配置が百済にもあることが判明)。
 この調査では塔跡の南側も発掘され、中門と南門も見つかりました。どちらも礎石や基壇がよく残っていました。火災の痕跡がなく自然倒壊したことがわかりました。中門に取りつく回廊や南門の南側に広がる石敷き広場も見つかっています。最後に寺の南東の瓦窯の調査がおこなわれ、第2次調査は1957年3月14日に終了しました。

舎利発見 ―第3次調査―

 1957年7月5日から8月12日まで、塔跡を中心に第3次調査が実施されました。調査開始まもなく、塔の上面に瓦礫と木炭が詰まった大きな穴が見つかりました。掘っていくと穴の中に直径20㎝ほどの石櫃(石製の容器)が埋められ、その中に11㎝角の木箱、さらにその中に金銅製舎利容器が納められていました。木箱の墨書から1196年の塔焼失後に地下から掘り出した舎利を再び埋納したものであることがわかりました。さらに掘り進めると、地表下2.7mのところで東西2.6m・南北2.4mの心礎が見つかりました。心礎は塔の心柱を受ける礎石です。中心に開けられた30㎝角で深さ21㎝の穴の東側側面に12㎝角の小穴が開けられ、創建時の舎利はここに埋納されていたことがわかりました。心礎の上面には舎利とともに埋納された挂甲(けいこう:よろい)や刀子(とうす:ナイフ)・耳環(じかん:イヤリング)・蛇行状鉄器(だこうじょうてっき:馬の背中に旗竿などをとりつけるパーツ)などが発掘され、後期古墳の副葬品と共通することが話題となりました(現在の研究では百済の舎利埋納儀礼との関連が深いことがわかっています。塔跡出土品は飛鳥資料館で展示されています)。北側にある来迎寺(らいごうじ)境内での講堂跡や北面回廊の発掘もおこなわれ、3回の発掘調査で飛鳥寺の主要伽藍が明らかとなりました。

調査は続く
 飛鳥寺の発掘調査報告書は、調査にかける熱意が伝わってくる報告書でした。長さの単位が「尺」で記載されているのが特徴的です。飛鳥寺の発掘では考古学の調査員がメートル法の使用を主張したのに対し、建築史の調査員が「尺で建てたものは尺で測る」ことを主張し、後者が採用されたそうです。
 飛鳥寺の発掘は3次調査の後も続けられ、飛鳥大仏の調査もおこなわれています。調査がすすむたびに新しい発見があり、研究がすすみます。地道な調査の積み重ねによって古代史の謎が明らかになり、興味がつきません。

  《参考文献》
   奈文研 『飛鳥寺発掘調査報告』 奈文研学報第五冊 1958年
   飛鳥資料館図録第15冊 『飛鳥寺』 1986年
   飛鳥資料館図録第58冊 『飛鳥寺二〇一三』 2013年
   坪井清足 『飛鳥の寺と国分寺』 岩波書店 1985年

飛鳥寺本堂(中金堂跡)

飛鳥寺塔跡

飛鳥寺西金堂跡

次回は、第72回「高取の渡来人遺跡」です

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